ACADEMIC PAPER

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  • 中西進研究Web報告1 2021/11/03

    さわらびの春

    中西進

                      一
    
     『万葉集』巻八の巻頭歌をあげよう。 
     
      志貴皇子の懽の御歌一首
      石ばしる 垂水の上の さ和良妣(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも (巻8-1418) 
    
     まず、ここに歌われるワラビは、歌の内容からみるとゼンマイだが、われわれがいうところのワラビ(蕨)なのか、ゼンマイ(薇)なのか。しかし930年代にできた『和名抄』(巻17)には、   
    
      薇蕨 爾雅注云薇蕨(薇蕨二音 和名和良比)初生無葉而可食 
    
    とあり(カッコ内は割注)、『爾雅』では蕨と薇が別字だといいながら、日本では当時薇蕨を必ずしも区別せず、和名はワラビだとしている。そして『和名抄』より後の『節用集』や『日葡辞書』(1603)あたりから、ワラビとゼンマイを区別するようになる。
     そこでここではゼンマイを古称の「わらび」として論をすすめることとしよう。
    
    
                      二
    
     さて、歌の内容を考えると、はなはだ興味深い二つの点が注目される。
     第一点は、わらびを水辺の風景の中においた点。
     第二点は、わらびを春の伝達者のみにとどめず、広く喜びとした点。
     まず第一点について述べたい。
     『爾雅』はすでに『和名抄』にあげられていたように、中国最古の辞書であり、日本の大学寮の選叙令でも進士の資格として「並びに文選・爾雅を読む者」と規定されているから、当然志貴皇子も知っていただろう。ところがその『爾雅』(郭璞註四部叢刊本)によれば、
    
        薇 垂水(生於水辺)
    
    と、垂れる水という解説が見える(カッコ内は割注)。「垂水」という解説は、万葉集を知る者にとってなんと衝撃的ではないか。
     念のために後の詳細な注をつけた一本をさらに挙げると『爾雅疏』(巻8)には、上の郭注を含んで次のごとくある。訓下し文をそえる。
    
      薇 垂水 釈曰草生於水浜而枝葉垂水者曰薇故注云生於水辺也
    (薇ハ垂水ナリ。釈に曰く。草、水浜に生ひて枝葉を水に垂るる〔者〕は薇と曰ふ。故に注に水辺に生ふと云ふなり)
    
    となると、『爾雅』では「薇」が常に解説の垂水をともなう中で、この垂水をこそ重点として解説を書こうとしていることは、看過すべきではあるまい。
     そこで、問題は広がる。志貴皇子は、単に目に触れた風景を述べたかのごとく装いながら、実は辞書から風景を想像したものだった。万葉集の読者はほとんどの者が皇子の新鮮な叙景と思ってきたが、そうではない。辞書的作詩法、いわば、単語を源泉として詩的水脈を広げるといった作歌を志貴皇子はしたのだった。
     先進文化圏が持っていた単語を、受容者が母国語で叙述に改めて翻訳するという文化受容ともいえるが、この受容は単なることばの渡来をはるかに凌駕する、文化水準の高さを示すと見るべきであろう。
     わたしはかつて漢字受容の一つとして、日本文化の一角をなす「無用者の系譜」の最初に、志貴皇子の「無用(いたづら)」表記(万葉集巻1-51)をあげたことがある。
     これもそれと一連のことであろう。
     ちなみに、万葉集の原文が「垂見(たるみ)」であることにも一言する必要がある。いわゆる借訓にあたるこの文字使用は、皇子の手から離れた世界で、口誦された痕跡にちがいない。
     ことばを音としてそのまま口誦しながら文字化しなかった歌が、後に万葉集に記載されたのであろう。
     さらにもう一つ、大事なことがある。一首は、志貴皇子がいち早くゼンマイの若芽の形が水の渦巻き形にひとしいと気づいた和歌であった。皇子は、水辺の植物の形が水中に戯れる渦巻きとひとしいことの発見者だった。そのことは大きい。
     中世イタリアのダ・ヴィンチは、人間の髪のカールに、水の渦巻きを連想した。大空を渦巻きつつ吹き渡る台風が、路上におびただしい枯葉の小さな渦巻きを残していくことに、わたしは驚いたことがある。
     こうして水の渦巻きと相似する薇の姿を見た皇子の一首は、大きな渦巻き形の宇宙観を表した一首だった。わたしはここにも、「宇宙の相似性原理」を深く感じざるを得ない。
    
    
                      三
    
     第二点に移ろう。薇の萌え出す春がどのように喜ばしいかという点である。
     すでに読者も気づいているかと思うほどに、薇といえば当時の教養人が誰しも思い出す「伯夷叔斉」の故事がある。二人は周時代の人で兄弟。ともに周の武王が前王朝の紂を滅ぼしたことを潔しとせず、周王朝には仕えずに首陽山にこもり、薇を食しつつ餓死したという。中国では孔子以下こぞってこの行為を賞賛してきた。
     だから薇は、この高潔な故事から離れることができない。むしろ皇子も二人の行為を「激しい」水流にたとえて、皇子も、一首を「石ばしる」と詠みはじめたのかもしれない。
     紂王を討って周王権を樹てた武王と同じように、壬申の乱に勝利して王権を握った天武天皇は、天武8年5月、みずからの皇子に川島皇子・志貴(芝基)皇子ら天智の皇子を加えて、争いのない事を誓わせた。
     しかし天武王権は、志貴皇子の子、光仁天皇の即位によって幕を閉じる。そこに至るまで志貴皇子には周囲と微妙な均衡を保つ生涯があった。むしろそのことこそが、すべて万葉の歌までもの志貴皇子の立脚点だったといえる。
     兄に川島皇子がいることまで同じだし、中国の伯夷叔斉の故事は、つねに彼の胸中を去らなかっただろう。現に川島は大津皇子事件に失敗して、汚名を末代に残すこととなった。
     むしろ薇は、そのために据えられた隠されたテーマと見るべきではないか。
     皇子の歌には、類似のモチーフが多いことも後に述べよう。
     とにかく伯も叔も、薇がもっと萌え出せば餓死しなくてすんだのだから。萌え出すことは、無上の懽びのはずなのである。  万葉の一首を、もし孔子以下の人々が知っていれば、どんなにかその懽びを共有しただろう。そう考えると、御歌の「懽び」とは、孔子以下の人々の懽びを想定した、全アジア的な規模のものだったことになろう。
    
    
                      四
    
     じつは巻八とは、光仁天皇の時代すなわちわが子の時代に編纂された一巻で、その巻頭にこの一首がおかれたのは、巻頭を父祖の歌で飾るという編集者の意図だと思われる。
     光仁天皇によって、皇子が春日宮天皇と追尊されているのと、それは同列の配慮であろう。光仁天皇はこの翌年5月にも皇子の忌斎を、川原寺に設けていて、その時は田原天皇とある。御陵のある土地をもって、尊号としたのであろう。
     こうした光仁朝以後の志貴皇子追慕の厚さを見ると、むしろこの一首は、志貴死後の熱い追慕から格付けされた面も多かったのではないか。巻頭歌に祭り上げられ、「懽の御歌」として位置づけられるまでの経緯の中に、上に述べた口誦もあったと考えられる。
     もとより、相似性原理や辞書からの風景の喚起は、皇子自身の聡明さや澄明な知性を、他所には考えられない。
     歌に漂う気品もまた、皇子の気宇のひとつであろう。
    
    
    
    後補
    1. 垂水を地名とする説もありますが、一点に渦巻きながら降り続ける水を詠んだものです(2009年1月21日朝日新聞夕刊「ナカニシ先生のこども塾」)。その様は、万葉集の巻7-1142、巻12-3025にも読まれています。
    
    2. 薇を垂水と説明することが『爾雅』に見えることは、木下武司氏が述べておられています(『和漢古典植物名精解』2017年刊行)。

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